十三塚

 佐野原神社の祭神 二条為冬卿の将軍塚を始め、
周辺には竹之下の合戦で討ち死にした
二条為冬らを祀ったとされる全部で『十三の塚』が存在していたが、
時代の背景より何点か行方が分からなくなってきています。


合戦当時は野原だった神社周辺であったが、
今日では御殿場線によって分断され、
時代と共に住宅が建ち並ぶ住宅地域と変わってきました。

こうした開発によって十三塚は諸事情にて何度か移設されたりしています。

そうなると所在が分からなくなってしまった塚もいくつかあります。

無くなってしまった塚は現在は探すのは難しいです。
悲しいですが、そこで歴史が終わります。

佐野原神社を創建にあたり、神社はもちろん、十三塚の保存するように
明治政府よりお達しがありましたが、
それも時代と共に薄れてきてしまっているのが現状です。

当時の塚の様子や場所など知る方がだんだん居なくなり危機的状況です。
時代のながれでしょうか・・・・

現存している塚は昔からありますので大事に守っていかないとなりません。
そして後世に伝えていかないとなりません。

以前調査した塚の下を堀り調査したところ石棺が出てきたそうです。

箱根・竹之下の合戦で為冬卿、従士達、家来が
亡くなられて700年がたとうとしています。

石碑を建てているということは言い伝えがあり、
先人が供養していることになります。
意味があるんです。


また、これらの石造物がいつ頃に建立されたかは不明。


五輪塔は中世に盛んに造られた石造物だが十三塚の五輪塔は
後世に造られたののと推測されます。

いつの時代か、先人たちがこの地で討ち死にした官軍の兵たちの霊を
祀って塚を建立したと思われます。

どうぞ佐野原神社に参拝した際、
拝殿にて参拝後、境内にお祀りしてあります十三塚にもお参りください。


旧跡は十三塚と総称され
点在しておりますが、
由来の根拠は次の通り上げることができます。


佐野原神社宝物殿に保管されている
文化二年同十二年の平松新田(村)御改書上帳に
「真為の程はわからないが言い伝えがある」と記載しており、
口碑として古くからいい伝えられたものと思われます。



②太平記や梅松論などの描写、箱根竹之下の戦いの始まりから
王朝軍敗退に室るまでの戦況、地形的な諸条件をみますと、
佐野原付近でも戦いが行われたのは事実のようです。


③五輪塔や宮方塔など称する一連の塚が現存しています。


④郷土では、葛山次郎が正平九年(一三五四)南朝より軍功をうけていますので、
郷土からも箱根竹之下の戦いに参加 したものと思われます。


⑤当時の交通路は箱根西麓よりと原-平松-佐野-神山・・・
中央部の台座上にそして愛鷹東麓にそれぞれ通っていました。


中丸古墳の真上に宮方塔が建立されており
古墳と墳基の混同でないかと思われます。


※一部の十三塚は、神社内他周辺に存在していますが、
個人の私有地に大切にお祀りされているため、
立ち入ることはできません。


※所在が分からなくなっている塚は現在調査中です。
ほぼ場所は特定しています。
十三塚で情報がある方は是非教えて頂きたいです。
よろしくお願いいたします。

当時の
スケッチ図
(明治9年)
当時の
スケッチ図
(昭和) 

現在(写真)
旧住所  大きさ
 




将軍塚




将軍塚修復

将軍塚修復

長年の野ざらし状態や
時代と共に、
溶岩石がズレ始め
崩れかかってきた。

現状維持が難しい状態で
あったため
平成の時代に溶岩石を
積み直し
コンクリートで固定した。

駿東郡
平松新田地内字十三塚
(服部大八
 持地内)

現在 
佐野原神社内
二条為冬卿
墳墓 

将軍塚


※御神域につき立入禁止

石塔丈
七尺


石垣高さ
七尺


塚 
東西三間 南北四間






一石五輪塔


駿東郡
平松新田
字十三塚

現在、
私有地に
あるため
立入禁止

石塔丈
三尺六寸


塚 
東西八尺
   

南北二間






庚申塔


駿東郡
平松新田地内
字十三塚



現在、
裾野駅北口の近くの道にあります。

石塔丈
二尺


塚 
東西二間 
 


南無阿弥陀佛


駿東郡
茶畑村
字野添


移動あり 
現在 
佐野原神境内

石塔丈
二尺


塚 
東西二間


塚 
南北二間
 

雑木林の中の墓地

雑木林の中にある墓地に墓との間に置いてありました。以前は畑等にあったとおもわれる。地主様にてこちらに移動されました。
道路からは全く見えない

この中に入ると・・・



墓の間に十三塚が
置いてありました。

真中の写真 : 南無阿弥陀佛


今回発見された墓地は区画整理で、道路を新しくする所だったので移動する前に発見できた。もしこのことを逃すと行方が分からなくなる所でした。

地主様の許可の元、
佐野原神社に移動しました。



 

 
 



毘沙門天 儀士


駿東郡
平松新田
字十三塚
不毛土地

移動あり
現在
佐野原神社内

石塔丈
三尺 



東西二間


塚 
南北二間
 

左写真 : 毘沙門天 儀士

移動前の「毘沙門天儀士」は、
将軍塚の後ろ、道路を挟んだ所にありました。(写真:左)

区画整理の為、塚の下を調査を行い佐野原神社内に移動しました。
現在と少し違うのは、固定するためにコンクリートを使用し、下の方を埋めました。

 
 




一石五輪塔


駿東郡
平松新田地内
字十三塚

現在は
私有地に
あるため
立入禁止

石塔丈
三尺六寸


塚 
東西八尺


塚 
南北二間
 

一石五輪塔

老朽化の為、破損した為、
天理教の墓地にはありません。


駿東郡
茶畑村地内
字野添


天理教
佐野原大教会
墓地



石塔丈
三尺五寸


塚 
南北二間


塚 
東西二間


高さ 
五尺
 


一石五輪塔

新たに造りかえた一石五輪塔は
縮小して制作しました。


天理教佐野原大教会墓地隣にお祀りしていました。「一石五輪塔」は、老朽化で破損していたため、佐野原神社にて令和元年十二月、師走大祓終了後、宮司により神事を行い御霊を遷し、祝詞奏上、玉串拝礼を行い参拝者全員で参拝しました。元におまつりした一石五輪塔の下の石と土を持ち帰り、新しい一石五輪塔の下に土を埋め戻し、石で蓋をして周りに石を並べ一石五輪塔を置きました。 今回、新たに制作した一石五輪塔は、元の一石五輪塔を参考にしました。制作業者様は、皆さんで考えながら仕上げていただきました

現在
佐野原神社内

 

 

塚の所在不明

(地表から突出した溶岩の
背景に木がある)


※現在は駐車場(伝)



駿東郡
平松新田
字十三塚


塚 
東西九尺


塚 
南北九尺


高さ 
三尺
 




個人宅の稲荷社


溶岩石で土地を一週
囲ってあります。

元々は溶岩で囲っていたが、
稲荷社に参拝出来る様に
少し入り口が入れる
ようになっている。


溶岩積の塚


駿東郡
平松新田
字瀧之台


現在は
私有地に
あるため
立入禁止

※屋敷の
稲荷社を
お祀り
しています。

塚 
東西八尺


塚 
南北八尺
 


  

妙法蓮華経 神儀士

個人宅に祀ってあったが、
区画整理にてお寺に預かって
もらっていた。
その後、連絡がなく業者により塚を解体するところだったが、
偶然に十三塚について
調べていたら解体の情報を
入手して佐野原神社に
急いで移動させた。 

駿東郡
平松新田地内字十三塚



現在
佐野原神社内



石塔丈
三尺


塚 
東西一間


塚 
南北一間
 


 
 

護国神社


一石五輪塔


駿東郡
平松新田地内
字上ノ原


移動あり
(現在の位置)

現在、
ここに
落ち着いた
護国神社

石塔丈
三尺五寸



東西三間



南北二間
 

移動前の護国神社

昔は、
「キミサワ」「マキヤ」さんの
前にありました。
現在は「静岡銀行」さんの
ある所です

こちらの写真は飯塚様が
昭和63年3月に
撮影しました。

道路に面している所に
ありました。
当時の様子がわかります。
さらに昔はここの建物より
裏にありました。


護国神社

3回目に移動した護国神社


 
 


 塚の所在不明

(小さい石造物)

※現在は駐車場(伝)



駿東郡
平松新田
字十三塚


現在は
裾野駅前道路・駐車場の所にありました。

現在、
裾野駅入り口
ロータリーの所

石塔丈
一尺二寸

塚 
東西二間

塚 
南北二間
 


 
 

観世音菩薩


駿東郡
平松新田
地内字上ノ原

移動あり
(現在の位置)

現在、
護国神社の
向かって右側

石塔丈
一尺六寸

塚 
東西一間


南北一間
 


左奥写真 : 観世音菩薩


双葉遊園地の前にありました。

写真の
左奥の石塔です。

この周りにはいくつか石塔が
ありましたが割れているのも
ありました。

こちらの写真は飯塚様が
、昭和63年3月に
撮影しました。

当時の様子がわかります。
 

 
         
静岡新聞様の記事に裾野十三塚について
当時、将軍塚の写真が紹介されました。


      
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